アイルランドのケルト船乗り修道士たち
古代ケルトの神話・伝説群をはじめて「文字」として書きつけ、後世に伝える重要な役割を担ったのは、ほかでもない彼らアイルランドのケルト船乗り修道士たちでした。キリスト教伝播以前のアイルランドにいたドルイドやフィリと呼ばれる吟遊詩人と同様、修道士たちはなによりも「ことば」に並外れた関心があり、それを巧みに操るすべを心得ていました。聖パトリック来島まで「文字」をもたなかったアイルランド人が、数十年たらずでゲール語の基礎を完成させ、なおかつ大陸の動乱から避難してきたギリシャ・ローマの知識人が携えてきた古典をつぎつぎとゲール語やラテン語に翻訳した事実を考えると、彼らはまぎれもなく当時一流の教養人であったと言えるでしょう。
またケルト修道士たちは、難解なギリシャ・ラテンの古典や文法書をただ羊皮紙にせっせと転写したり、注解をほどこしたりするだけではあきたらず、羊皮紙の余白になんとも楽しい「落書き」まで大量に残しており、いまでは当時の貴重な証言者となっています。下の詩はそんな楽しい「落書き」の一例です。
わたしと猫のパングル・バン
われわれの仕事はよく似ている
ネズミの捕り物が彼の喜び
わたしはことばの捕り物
家の中でわたしと猫は座り
おたがい、心に楽しみを見出す
猫は壁にじっと鋭く目を凝らす
わたしも峻厳な知に弱くとも目を開く
とっさに飛びかかり彼は欣喜雀躍
獲物が鋭い爪にかかった
わたしも心から愛した難問を解きうれしくなる
かくしてわれわれは心安らかに仕事に励む
猫のパングル・バンとわたし
自分たちの業に、無上の喜びを見出す
わたしにはわたしの至福。彼には彼の至福。
(出典はオーストリアのウンタードラオベルク・ザンクトパウリ修道院写本から)
しかしながらケルトの修道士はただ修道院の蜂の巣型の僧坊にこもって写本制作に没頭していたわけではありません。こんどはその写本をたずさえ、文盲の異教徒である蛮族の住む土地へキリストの福音を広めるため、果敢に牛の革を張っただけのカラフ(革舟)に帆を張り漕ぎ出していったのです。彼らは異民族に蹂躙された、まさに暗黒時代ともいえる当時のヨーロッパ大陸へと宣教し、各地を積極的に移動しては修道院をつぎつぎと設立していきました。そんなアイルランドの「行動する修道士」のなかにかの有名な聖コルンバと聖コルンバヌスがいます。
聖コルンバ(Columba、ゲール語ではColumcille<幼少時、詩編ばかりそらんじていたコルンバにつけられたあだ名「教会の鳩」から>、ca.AD521-597)はイ・ニール王家の血を引く家系に生まれ、クロナードの司教聖フィニアンのもとで学び、のちに修道院長として各地に修道院を建てていきましたが、師フィニアンのもっていたみごとな装飾の施された詩編写本の所有をめぐる血なまぐさい戦闘を引き起こした責任を問われ、アイルランドから永久追放されてしまいます。12人の弟子とともにカラフに乗りこんだ聖コルンバは、水平線のかなた、スコットランドのアイオナ島へ漂着します。彼はこの小島に修道院を建て、スコットランド本土の原住民で蛮族のピクト人の族長たちをつぎつぎとキリスト教へと改宗させ、修道院を建てていきました。後継者聖エイダーンは、師の遺志を継ぎ、同様の布教活動をイングランド北部でおこないました。彼は、あの名高い『リンディスファーンの福音書』を産み出した、リンディスファーン島の修道院を設立した人物でもあります。
もうひとりの偉大な「船乗り修道士」の代表が聖コルンバより二十歳ほど年の若い聖コルンバヌス(Columbanus, ca.AD543-615)です。やはり一氏族の指導者で修道院長だった聖コルンバヌスは、野心的ともいえる大いなる理想と豊かな古典の教養(教父著作をはじめウェリギリウス、プリニウス、ホラティウス、オウィディウス、ユウェナリスも読んでいたと伝えられます)を武器に、575年、12人の弟子を引き連れカラフに乗船、ガリアのブルターニュ半島に上陸します。白い修道服だけをまとい、手には曲がった杖と典礼書の入った防水加工された革袋をもち、水入れと聖遺物と聖別されたパンの入った小袋を首から下げた聖コルンバヌス一行は、アイルランドのバンゴールから直線距離にしてなんと1600キロメートルも歩きとおし、北イタリアのボッビオで没するまで、驚嘆すべき旅を開始するのです(下図参照)。 聖コルンバヌス本人、同行した修道士、その直弟子たちがヨーロッパ各地に建てていったケルト型修道院の総数は百近くにものぼるといわれ、その範囲も遠くモラヴィアまで達しています。たとえばルベ、フォントネル、シェル、マルムーティエ、サンベルタン、フォンテーヌ、リュクスィユ、そして世界遺産としてつとに有名なザンクトガレン(St Gallen、聖ガルSt Gallは聖コルンバヌスの霊的後継者)、レーゲンスブルクなどはみな聖コルンバヌス、もしくはその弟子たちが設立していった修道院でした。
こうした一見勇猛果敢にも見える聖コルンバヌスの「放浪」は、じつは挫折と苦難、生命の危険にさらされる冒険の連続でした。まず彼は野蛮なスエヴィ族の住むヴォージュの森に三つ修道院を建てました。591年ごろからは東ガリア、ブルグント地方で修道院をつぎつぎと設立してゆきました。生来気性が激しく、自分の目で見たヨーロッパ大陸の司教たちが自堕落な生活を送っていることに腹を立て、彼らとたびたび争いになり、またブルグンディ王テオドリッヒ2世の不興も買って国外追放の憂き目を見たコルンバヌス一行は、自分たちの建てたリュクスィユ修道院に別れを告げ、大西洋に臨む港町ナントからアイルランド行きの船に乗船しました。ところが時化で遭難、からくもコルンバヌスをふくめた4人だけが生き残り、ふたたびナントから踵を返してこんどははるかアルプスを越えて北イタリアのロンバルド人を改宗させるべく旅を始めました。コンスタンツ(ボーデン)湖畔の町ブレゲンツでゲルマン語に通じた愛弟子ガルが病気になり、師コルンバヌスと口論の末、やむなくコルンバヌスは愛する弟子を残して、数少なくなった仲間とともにロンバルディアのボッビオへと入り、612年、ついにローマ教皇のお膝元であるイタリアに初のアイルランド・ケルト系修道院を設立します。コルンバヌス自身はローマへ赴きたいという願望を果たせぬまま、615年にみずから建てたボッビオの修道院で息を引き取りました。
[盛節子著『アイルランドの宗教と文化』(日本基督教団出版局刊)から]
なぜ「放浪」するのか?
アイルランドの船乗り修道士の特徴は、なんといっても絶えず動き回っていることです。これは一般的意味での組織的宣教活動とは異なります。彼らは単独もしくは――伝統的表現ながら――12人までしか弟子を同行させませんでした。そしてたいてい、目的地さえ定かではありませんでした。彼らにとってキリストのために放浪することこそ、最高の目的だったのです。
彼らはヨーロッパの放浪書生とも呼ばれ、その遍歴はラテン語でPeregrinatio、異郷遍歴と呼ばれました。
ではなぜ生命の危険も顧みずに、彼らは海を越えてまで、「キリストのために」放浪したのでしょうか?
ジョナス(Jonas, AD600-659)による『聖コルンバヌス伝』にはつぎのような福音書のことばが引かれています。「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない(マタイ 10 : 37)」
またコルンバヌスも自身の著作の中で、「自発的苦行の辛苦において殉教すること」と述べています。ケルト船乗り修道士の残した数ある書簡でも明らかなように、彼らがもっとも心に留めていた聖書のことばはやはり創世記12 : 1の、神がアブラハムに命じたとされるくだりでしょう。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地へ行きなさい」。アイルランドではひとりの殉教者も出さずにキリスト教化したただひとつの例です。8世紀に古アイルランドゲール語で書かれた『カンブレの説教 Cambrai Homily』には「蒼い(または、緑の)殉教」ということばが登場します。ケルト船乗り修道士たちの遍歴は、ひとことでいえばこのことばに凝縮されます。つまりアイルランドでは殉教者がひとりも出なかったために、キリストのためになにかほかの形で殉教する方法を見出す必要に迫られたというわけです。
また、アイルランドのキリスト教はローマからではなく、エジプト・地中海沿岸からガリア・トゥール経由で伝播したと言われており、砂漠の教父たちの苦行がそのままアイルランドの地理的環境に移植されたとも考えられます。もともとアイルランドのケルト人はすぐれた船乗りで、かつては「9人の人質のニアル Niall Noígiallach」のような海賊を生業としていた者も多く存在しました。それが聖パトリック以降、カラフを連ねてつぎつぎとヨーロッパ大陸へと押し寄せてきたのが、修道服をまとった彼ら船乗り修道士の一団だったのです。こんな修道士たちが孤独と観想をもとめて、自分たちの砂漠を海へ求めていったのも自然な成り行きです(彼ら自身、「海の砂漠を求める」ということばを書き残しています)。また、大陸があまりの混乱状態であったという理由もありますが、セビリャの大司教聖イシドールSaint Isidorus Hispalensisが著した『語源論 Etymologiae』の写本は直接アイルランドへ運ばれ、アイルランドの修道士が写本をヨーロッパ大陸へと持ちこんだのでした。これは当時のアイルランド修道院とスペイン教会との交流が盛んであったことを物語っており、ケルトの船乗り修道士たちがいなければ、この中世最大級の知的遺産は散逸の危険さえあったのです。
しかしながら、ここでもうひとつ大切な要素が隠れています。それは当時のアイルランドの社会状況です。
アイルランドは前述したとおり、氏族どうしがめいめい領有権を主張しあう、統一国家も都市もなにもない国でした。聖パトリック来島時のアイルランドはおおまかに5つの氏族が統治する封土に分かれていました。当時の氏族社会の慣習では、死刑に次ぐもっとも重い刑罰は流刑exileでした。氏族の枠から外へ出ることは、アイルランド人にとっては死も同然でした。この当時の慣習がキリスト教的に昇華され、まるで野火のごとく流行したのが「自発的追放」としての放浪だったというわけです。
7-8世紀には、あまりにも多くの修道士がカラフを出し、オールもなしに文字通り漂流する者まで出たりしたため、過度の苦行を禁止する運動まで起こったほど盛んになりました(ラテン語版『航海』26章の「隠者パウルスの島」はそれが反映されているとする説もあります)。そんな苦行者のなかには、北大西洋に浮かぶ、いまだ人跡未踏の無人島に神の安息を求める修道士まで現れました。9世紀ごろ、カール大帝に仕えていたアイオナの修道士で地理学者のディクイル(Dicuil, 生年没年ともに不詳)はその著書『地球の計測』で、795年ごろにはアイルランド人船乗り修道士の一派が遠くフェロー諸島、アイスランドまで達していたと記録しています。『聖ブレンダンの航海』成立の背景には、このような北大西洋をカラフで頻繁に往き来していたアイルランド人船乗り修道士たちの体験談があったことは容易に想像されます。それはたとえば「羊の島(フェロー諸島を暗示)」や、「鯨のジャスコニウス」、「鍛冶屋の島(アイスランドの海底火山説が有力)」などの生き生きとした舞台設定にも現れているといえます。 |