中世のベストセラー

「今日この奇跡をご覧にいれれば、わたしの言葉をなるほどと信じてもらえましょう。これなるは聖ブランダーネの御頭、さあご覧あれ」
――デア・ストリッカー『司祭アーミス』(藤代幸一訳)から

 ラテン語版『聖ブレンダンの航海』はけっして聖ブレンダンの生涯の忠実な記録ではありません。おそらくブレンダンの死後、修道院を引き継いだブレンダンの氏族の末裔たちが偉大な修道院創始者の名を後世に残すべく書き記したものの一部にすぎません。『聖ブレンダン伝』や『聖ブレンダンの祈り』は、そんな聖人崇拝から生まれた写本群のひとつでした。

 しかしながら、8〜9世紀ごろにアイルランド・マンスター地方で成立したこの『聖ブレンダンの航海』だけは事情がちがいました。10世紀ごろ、ヨーロッパ大陸のロタリンギア王国(現在のライン川下流域。ロレーヌ地方を含む)で修道院を建てていったアイルランドの「放浪する」修道士たちの一派が書き写したラテン語版写本を源流として、おびただしい数のラテン語写本が文字通り大陸のいたるところでつぎつぎと書き写され、それがまた書き写されして増えていきました。ラテン語版だけで現存する写本群は125もある事実からして、あるドイツ人学者はこのラテン語版『聖ブレンダンの航海』を中世のベストセラーと呼びました。

 当時は活版印刷術発明以前でしたから、当然、すべて写字生の手作業で書き写されました。一冊の写本(コーデックス)が仕上がるまでは気の遠くなるほど長い時間を必要としました。にもかかわらず写字生たちはこれだけの数の写本をものしたわけで、読者層がラテン語を解する聖職者や貴族、知識階級に限定されるとはいえ、当時の大陸でいかにこの航海譚が人気を博したかは容易に想像できます。

 その後、フランスではブノワと名乗る修道士がアングロ・ノルマン語による脚色版を編纂し、またスペイン・イタリア・オランダ・ドイツでもラテン語版を土台にした新たな「ブレンダン航海譚」がつぎつぎと生まれ、またそこから派生した物語がまたたくまに増殖していきました。

 聖ブレンダン人気は衰えを知らず、グーテンベルクにより活版印刷術が発明されると、こんどは一般民衆向けの印刷本となって出回るようになりました。その好例が英国人ウィリアム・カクストンによる中期英語版(1484年)と、ドイツ・アウクスブルクのアントン・ゾルク印刷工房から出版されたいわゆる「ドイツ民衆本版」(1476年) のふたつです。とくにドイツ語による民衆本版は 20刷以上も重ね、印刷本の最初のロングセラーとなりました。この事実はラテン語を読む一部の特権階級のみならず、一般民衆にとってもこの聖人の航海譚がたいへん魅力的な物語だったことをしめしています。またドイツでは、とくにバルト海沿岸地方で聖ブレンダン信仰が故国アイルランドに負けずおとらず盛んになり、バッハの協奏曲の曲名としてもつとに有名なブランデンブルク Brandenburg という地名も、じつはこのブレンダンが語源とさえ言われています。*

 なぜこの物語がこれほど多く書き写され、各国語訳され、印刷本にまでなったのでしょうか? ほかのケルト航海譚( イムラヴァ )とは異なり、キリスト教聖人の物語であることが前面に押し出されていることがまずあげられます。おどろとおどろしい異教のイメージが弱められている点はたしかに見過ごせませんが、聖ブレンダン一行の「西方の地」探求とかの地への到達、そして帰還を描いていることが、当時の大陸に住む人々の心をもおおいに惹きつけたからにほかなりません。当時のヨーロッパ大陸では科学の発展にともなって、未知の大陸を発見することが最大の関心事でした。地図製作者たちにとってもこの『聖ブレンダンの航海』は重要な情報源で、まだ見ぬ「西方の地」を古典神話の「幸福諸島」と同一視して、「聖ブレンダンの島」として北大西洋上に書き記すほどでした( とはいえ、ラテン語版写本原文では、聖ブレンダン一行が革舟で航海したのは大西洋の西のかなたではありません ⇒ 聖ブレンダンの島 )。そして一説ではコロンブスもまた、トスカネッリの地図に描かかれた聖ブレンダンの島を信じて、新大陸発見をめざす大西洋横断航海に出発したと伝えられています。当時のヨーロッパ人はみな多かれ少なかれこの聖人の航海譚から影響を受けた世界観を持っていたと言えるでしょう。

 いまひとつの要素は「冥界への旅」のアレゴリーです。聖ブレンダンは生きながらにして「あの世」を訪ねて、ふたたび現世へと帰還します。この「生き身の人間が冥界を訪ね、ふたたびもどる」というモチーフは古今東西を問わず普遍的な主題で、修道士たちが書き残したアイルランド神話にもたびたび登場しますが、ヨーロッパ大陸ではケルトの異教的物語ではない、キリスト教聖人の物語に移し変えられた『聖ブレンダンの航海』が、この手の物語の代表としてその後の中世ヨーロッパ文学にもたびたび取り上げられたり、引用されたりしています。一例を挙げればギラルドゥス・カンブレンシスの『アイルランド地誌』、『狐物語』などの一連のブルターニュもの、『ヴァルトブルクの歌合戦』、冒頭にも掲げた『司祭アーミス』と『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』にも登場しています( 後年編まれた『ティル・オイレンシュピーゲル ... 』のほうは『司祭アーミス』からこのくだりをそっくり借用しています* )。そしてかの有名なダンテ・アリギエリの壮大な『神曲』も、この『聖ブレンダンの航海』が着想源のひとつとなっており、この航海譚が中世ヨーロッパ文学に直接・間接を問わずにあたえた影響の大きさがうかがえます。

* ... 「そして[ オイレンシュピーゲルは ]世にも稀な聖遺物として聖ブランダーヌスの頭蓋骨について語り、いま自分がその髑髏をここにもっており、これをもって新しい教会をたてるための基金を集めるよう命じられていると説いたのです」―― 阿部 謹也訳、岩波文庫版( pp. 112−3 )より

伝説の終焉、そして…

 新大陸発見を目指した探検家、知識階級、文学者のみならず一般市民をも惹きつけ、一種の社会現象的な盛り上がりを見せたこのユニークな航海物語も、人気に陰りが出はじめます。

 高い人気を誇ってきた『聖ブレンダンの航海』が読まれなくなった最大の理由は、1517年にドイツで口火を切ったルターやカルヴァンらによる宗教改革運動でした。瞬く間にヨーロッパ全土へ波及していったこの一連の運動により、それまでの聖人崇拝は影を潜め、聖人伝などの聖者文学は衰退の一途をたどることになります。中世初頭から数々のヴァージョンを産み出していった『聖ブレンダンの航海』も、1521年、アウクスブルクの印刷工房から最後のドイツ語民衆本版が刊行されたあと、その系譜はついに絶えました。祖形となったラテン語版がもっぱら修道士や聖職者を対象読者としていたのに対し、ラテン語版写本からすでに500年以上経過したルネサンス期には、安価な印刷本の普及にともない読者も一般市民層に取って代わられ、しだいにこの物語のもつ意味も理解されなくなり、たんなる御伽噺か夢物語と一蹴されるようになりました。また現実の新大陸発見以降、ヨーロッパ人探検家によって未知の土地がつぎつぎと発見されると、従来の地図に記された「聖ブレンダンの島」のような「地上楽園」などこの世のどこにも存在しないとの見方が多勢を占めるようになったのも原因のひとつかもしれません。

 19世紀後半になって、ラテン語版写本に端を発する『聖ブレンダンの航海』にふたたび研究者が注目するようになりました。はじめて北米大陸を発見したヨーロッパ人は聖ブレンダンに代表されるアイルランドの船乗り修道士の一派ではないかと推測する学者が現れたのです。この見解をめぐってはいまだに賛否両論ありますが、じっさいに当時の革舟を復元して北大西洋の横断航海ができるか、実験してみようと思い立ったひとりの男がいました。それがアイルランド在住の英国人冒険作家ティム・セヴェリンです。

* Brandenburgの語源についてはカール・セルマーのつぎの論文を参照。
Carl Selmer, The Origin of Brandenburg(Prussia), the Brendan Legend, and the Scoti of the Tenth Century, Traditio 7 (1949), pp. 416-33.


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