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現代に蘇った伝説の航海
ティム・セヴェリンによる「ブレンダン号」航海

  聖ブレンダンが活躍した時代から1400年以上が経過した20世紀後半になって、この聖人の航海がはたして実行可能だったかどうか、当時とおなじ工法で革舟カラフを建造し、航海実験を試みた男が登場します。それが英国人冒険作家ティム・セヴェリンです。
 セヴェリンはオックスフォード大学などで探検史と地理を専攻し、在学中から歴史に記録された探検の足跡を実地にたどり、その結果報告をまとめた本をつぎつぎと発表していました(処女出版は Tracking Marco Polo 『バイクでシルクロード』、邦訳は社会思想社刊)。そんな彼がある日の午後、アイルランド南西部コーク州の自宅で中世文学の研究者である妻ドロシーのなにげない一言を耳にします。
 「ラテン語版『聖ブレンダンの航海』は同時代の文献にくらべてあまりにも具体的記述が多すぎるわ。なんだかじっさいの航海を記録したって感じ。きっとブレンダンは北米大陸にたどりついたはずよ」
 これにたいしてセヴェリンは、これまでの探検史上での論争を引き合いに出してこたえました。「ぼくだってきみと同意見さ」
 彼も、そろそろだれかが当時そのままの復元船をつくり、航海実験に乗り出してもおかしくないと考えていたのでした。
 こうして中世より伝えられてきた、聖ブレンダンの航海が現代に再現されることになりました。当時の皮革学の権威はこぞって革舟なんぞ海水に浸ればすぐに腐敗してしまうと警告しました。ところが「オークの樹皮でなめした牛革で覆い、革の継ぎ目には獣脂を塗りつけて防水処置をほどこした」というセルマー校訂のラテン語版写本の記述の正当性を信じていたセヴェリンは、英国皮革研究所の支援をとりつけ、彼らのつてでいまなお中世とおなじやり方で革なめし加工を施す工房を紹介してもらい、なめし革の見本を用意させて実験した結果、『航海』の記述どおりに、オーク樹皮でなめした革は海水に浸っても腐らないと科学的に証明されました。そして防水用の獣脂は羊毛脂が最適との結果を得ました。
 その後、革なめし工房から船体用に57枚のオーク樹皮なめし革(じっさいに使用したのは49枚)を仕立ててもらったセヴェリンは、当代一の皮革職人を探し当てて、自宅のあるコーク州の造船所で当時そのままの方法で革舟を建造しました。船体には柔軟性の高いトネリコを使い、船べりには頑丈なオークをふたつ重ねた、中世アイルランドの大型カラフ特有の形状に仕立てたあと、船体の木枠の上に服を着せるように巨大ななめし革を一枚一枚、縫い合わせていくという、気の遠くなるような手作業をこなした末、ついに古代船カラフは現代に蘇ったのです。
 1976年5月17日、伝説の伝える聖ブレンダン出航の地、北大西洋に突き出したディングル半島ブランドン入江から、現代版復元船「ブレンダン号」は船長セヴェリンと4人の乗組員を乗せて、前日の時化のうねりがまだ残る大海原へと帆を上げ船出しました――伝説の革舟による航海ははたして実現可能だったのかどうか、そのこたえを求めて。

ブランドン入江から再現航海に出航するブレンダン号
ブランドン入江から出航する革舟「ブレンダン」号

  セヴェリンは過去の探検歴史学で論じられてきた観点から、聖ブレンダンがたどった航路はいわゆる「飛び石ルート」にちがいないと確信していました。ヘブリディーズ諸島・フェロー諸島と島伝いにアイスランドまで北進して、その後グリーンランド南東岸に沿って流れる海流に乗って舟を進めれば、おのずと北米大陸東岸のどこかへ到達するはずだと信じていたのです。ところがこの北大西洋は俗に言う「低気圧の墓場」、かのタイタニック号を沈めた魔の海と悪名高く、人々はこの北大西洋を西へ横断する、しかも舟ときたら鋼鉄船ならぬ牛のなめし革を縫い合わせただけの全長12メートルもない小舟と聞いて驚きあきれ果て、はては「聖ブレンダン以上の奇跡が必要だ!」などと揶揄する者まで出ました。
 ところが一見頼りないことこの上ないこの復元船はおおかたの人々の悲観的観測をみごとなまでに一蹴しました。なめし革と木枠の柔らかい船体はかえって高波の衝撃を吸収し、喫水も浅いため水深の浅い暗礁水域でも安全に通過することができたのです。おまけにアイスランドへ近づくにつれ低下する海水温のおかげで、船体の革を覆う羊毛脂の防水層が固まり、船体そのものの耐航性能が向上さえしたのです。また獣皮船は毎週浜に引き揚げて獣脂がけをしなければもたないとする専門家の意見まで誤りであることを証明しました。
 航海中、セヴェリンたち乗組員は雨がちの天候のなか、まるで修道院の独房のような狭い船内で生活することを余儀なくされました。しかし中世の船上生活は辛いことばかりではありませんでした。ラテン語版『航海』の大魚ジャスコニウスを彷彿とさせる、ゴンドウクジラの大群の訪問や凶暴なシャチ、さらに大型のナガスクジラやマッコウクジラまでが舟の至近距離に接近してきたり、フェロー諸島では「鳥の楽園」という表現がぴったりな無数の海鳥の乱舞に遭遇したり、想像を超える自然の驚異を目の当たりにしたのです。

フェロー諸島・ブレンダン入江に停泊するブレンダン号

カナダ・ラブラドル半島沖で上 : フェロー諸島・ブレンダン入江(キルケビュー)に停泊するブレンダン号。左 : カナダ・ラブラドル半島沖のブレンダン号。

  アイルランドを出航してから3か月後の7月、セヴェリン一行を乗せた革舟ブレンダン号はぶじアイスランド・レイキャヴィク港に到着、ヴァイキングの末裔たちの熱烈な歓迎を受けました。しかし西をめざして航海をつづけるにはすでに季節が遅すぎました。グリーンランド南東岸に異常に早く接岸した流氷群と強風のため、やむなくいったん航海を中断、アイスランドで冬越しすることにしました。
 これまでの航海の体験から、セヴェリンはつぎのことを痛感します。北大西洋の過酷な自然条件下で、現代の道具がつぎつぎと脱落したのにくらべ、中世の道具はじつにすばらしく適用し、長持ちした事実です。こうしたことは、じっさいにおなじ舟に乗って航海しなければ見えてこない視点でした。また食料も波をかぶるとすぐに痛む乾燥食材はやめ、翌年の航海ではさらに干物・鯨肉など中世に立ちもどった食材を大量に積み込むことにしました。
 1977年5月7日、セヴェリン船長以下4人の乗組員はもっとも危険で、困難な第二段階の航海に乗り出しました。当初べた凪ぎに凪いでいた海ですがほどなくして大時化に見舞われ、浸水沈没しかけたりあわや転覆、といったきわめて危険な非常事態に陥りましたが、このときも『航海』の記述に助けられ、船体修繕用に保管してあったなめし革で叩きつける高波から舟を守り、からくもグリーンランド沖の大時化を乗り切りました。
 グリーンランドからカナダ海域に入ると、またもや『航海』の記述を思わせる濃霧に遭遇し、一時ブレンダン号は行方不明になったりしながらもニューファウンドランド沿岸まで100マイルに接近しました。いよいよ長かった航海も終わると思ったある時化の日の真夜中すぎ、いきなり細かく砕けた流氷群の襲来を受けます。舟を流氷群から脱出させようと四苦八苦していたさなか、鋭利なナイフのように尖った氷の角と角とに挟み撃ちされ、ついに船体の牛革に穴があいてしまいました。急速に浸水する革舟。排水作業もままならず、乗組員全員が疲労困憊の極みにあったそのせつな、ようやく漏れ口を発見、さいわいなめし革が当てられる場所だったので急いで修繕して事なきを得たのでした。
 ふたたびもとどおりの耐航性能を取りもどしたブレンダン号は、アイスランド出航50日後の1977年6月26日午後8時、カナダ・ニューファウンドランドの無人島へと到達、いにしえの革舟が北大西洋を横断した可能性を立証して見せたのでした。

セイルを調整する乗組員 『約束の地』へ
セイルを調整する乗組員。 『約束の地』、カナダ・ニューファウンドランドへ。

実験航海の残したものと「聖ブレンダンの島」

 ではティム・セヴェリンのこの「再現航海」はなにを残したのでしょうか? 
 セヴェリン自身は、聖ブレンダンのとった航路として、アイルランドから島伝いに北米大陸北東岸まで伸びる「飛び石ルート」を想定し、じっさいにそれを復元された革舟で証明して見せました。ですが、ここで疑問が生じます。ラテン語版『航海』第28章では、聖ブレンダン一行が「羊の島」からむかった方角は東であると書かれており、どこを叩いてもブレンダン一行が西の海の果てまで旅したとは書いてないことです。文字どおり解釈すれば、聖ブレンダンがめざした「聖人たちの約束の地」は北大西洋の西のかなたではなく、じつはアイルランドからそう離れていない海上に存在することになります。このことから聖ブレンダンは現実に北米大陸へ到達したのではないとする意見が大半です。かつてかの聖人が到達した島の実在を信じた14世紀イタリアのトスカネッリやピッツィガニ兄弟、リチャード・デ・ベッロ(ヘレフォード大聖堂に保管されている世界地図製作者、地図画像はこちら、大聖堂サイトはこちらです)などの地図製作者はこぞって、北大西洋上に古代ギリシャから伝わる幸福諸島と同一視してまだ見ぬ「聖ブレンダンの島」を表現しました。はじめは現在のカナリア諸島付近にあった「聖ブレンダンの島」は遠征隊がカナリア諸島以外にそれらしき島影が見つからないことから地図製作者たちもかの島の位置をだんだんに北大西洋の西側へと移動させ、ジョン・カボットの時代になるとほぼニューファウンドランド沖に描かれるようになりました。「聖ブレンダンの島」を発見すべく、幾多の船団が船出してはなんの成果も得られず失意のまま帰還し、また運悪く難破しました。かの島をめざす最後の遠征隊がカナリア諸島で組織されたのは、なんと18世紀(1721年)のことでした。

ブレンダン号の軌跡 1976-77年

復元船ブレンダン号の軌跡(クリックするともとのサイズの画像が見られます)

 セヴェリンは、ニューファウンドランドこそ「聖ブレンダンの島」だと確信しました。聖ブレンダンが北大西洋の「飛び石ルート」で北米大陸に達したという概念は、じつはカボットの時代の地図がルーツだと言われています。だとすると、セヴェリンの奇跡的航海も、無駄足だったのでしょうか? じつは北米大陸の先住民伝承には、どう考えてもヨーロッパ系の白人キリスト教徒がいたとしか思えない記録が各地で残されています。ある年代記では、難破したヴァイキングの男が漂着した場所で、白装束の男が行列をなして、白布をまいた棒を前に差し出し大声で歌う光景を目撃していますが、彼らの言語がなんとアイルランドゲール語だったとか、アイスランドの年代記でもヴァイキング入植以前からアイルランド人聖職者がすでに生活していたと書かれているのです。とはいえアイスランドからも北米大陸からもいまだにこれらの記録を裏付ける遺物・遺構は発見されていません。
 ですがこの航海のほんとうの意義は、ラテン語版『航海』の物語を単なるファンタジーと決めつけず、往時とおなじ手段でその足跡をたどることがいかに大切かをあらためて教えてくれるところにあるのではないでしょうか。セヴェリンはこの航海を通じて、はじめて中世アイルランドで活躍した船乗り修道士のもつ高い航海技術を理解したのです。

冒険作家ティム・セヴェリンについて

  ティモシー・セヴェリン Timothy Severin は1940年、インド東部のアッサムで、デンマーク系の母と英国人の父の営む茶農家の第二子として生まれました。一家はインドでの事業をたたんで英国へもどり、セヴェリンはケント州トンブリッジ校からオックスフォード、ケンブリッジ両大学に進学、探検史と地理を専攻しました。オックスフォード在学中の1963年、バイクでマルコ・ポーロの足跡をたどり、それが処女作『バイクでシルクロード』(1964, 日本語版は1968年社会思想社刊)Tracking Marco Polo として出版されました。大学卒業後、フリーランスの冒険作家となり、聖ブレンダンの航海をたどる本作 The Brendan Voyage(1978) から、シンドバッドやイアソンといった歴史上有名な旅行家・探検家の足跡を当時とかぎりなく近い手段で検証する再現航海や旅を始め、その報告を単行本として発表する活動をつづけています。すべての検証旅行は記録映画として撮影、講演者としても活発に活動しています。1993年夏には、徐福伝説をたどる竹筏による太平洋横断航海の途中、伊豆下田港に寄港、そのとき乗組員のひとりが地元の小学生を相手に航海について講演したりもしました。最近作にSeeking Robinson Crusoeがあります(現在はヴァイキングもの歴史長編小説を発表してもいます)。こうした長年の活動にたいし、英王立地理協会はじめ多くの機関から数々の賞を贈られ、また1996年にはダブリン大学トリニティカレッジから名誉文学博士号を授与されています。
 とくに記念碑的なThe Brendan Voyage は世界的ベストセラーとなり、20か国語以上に翻訳され、いまだにペーパーバック版として重版されつづけています。現代に蘇った聖ブレンダンの航海物語は、いまを生きる読者の心もみごとに捉えたのです。
 ティム・セヴェリン本人のサイトはこちらです。⇒ ( 参考 )セヴェリン本人による講演のもようを伝えるページ


現在の「ブレンダン号」

  ティム・セヴェリンが聖ブレンダンの軌跡をたどる再現航海に使用した復元船「ブレンダン号」は、現在、アイルランド西部クレア州のシャノン河沿いにある古代史テーマパーク、「クラゴーノウエン・プロジェクト」内に建てられた専用展示室で静かな余生を送っています。

  北大西洋横断からすでに30年が経過し、セイルなどに傷みが目立ってはいますが、ほぼ当時のままの姿をとどめています。舟のかたわらには「だれがアメリカ大陸を発見したのか?」と題された解説版があり、ベストセラーとなったセヴェリンの航海記録、The Brendan Voyageからの引用文も記載されています。引用箇所は1977年6月20日朝、ラブラドル沖合で鋭いナイフのように尖った氷にはさまれてあいた船体の「穴」をようやく発見したときの描写。来場者に、この復元船による北大西洋横断がいかに危険で過酷な航海だったかを伝えています。

*なおクラゴーノウエン・プロジェクトについては、当地を訪ねた堀淳一氏の紀行『ケルト・石の遺跡たち』[筑摩書房刊、1991]のpp.181-193にもくわしく書かれています。

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