ラテン語版『聖ブレンダンの航海』冒頭部と各国語訳との比較以下の試訳はラテン語版『聖ブレンダンの航海』 Navigatio Sancti Brendani Abbatis と、ラテン語版を下敷きとしたヨーロッパ各国語訳の冒頭部分とをそれぞれ比較参照するために作成しました。 出典 : The Voyage of St Brendan, edited by W.R.J. Barron, Glyn S. Burgess, University of Exeter Press, Exeter, 2002. 発行元サイトはこちらです <試訳> ラテン語版『航海』 Navigatio 第一章 聖バーリンドの話 聖ブレンダンはアルトリー一族のフィンルグの息子として、オーガナハト・ロッカ・レイン配下のムウの人の地にお生まれになった。(1) 偉大な禁欲の人で、数々の奇蹟と、三千人近い修道士の父としてその名はあまねく知れ渡っていた。 (1). カール・セルマー校訂版(p.3)の冒頭部原文は'Sanctus Brendanus, filius Finlocha, nepotis Althi de genere Eogeni, stagnili regione Mumenensium ortus fuit'とあるが正しくは'Sanctus Brendanus, filius Finlocha, nepo(ti)s Alti de genere Eogeni(s), Stagni Len Mumenensium ortus fuit'。なおラテン語版冒頭部のアルトリー (・カイル) 氏族はオーガナハト王領には属さないので、多くのアイルランド人研究者はラテン語版写本の系譜がはじまった当初からなんらかの欠落が生じた可能性を指摘している(⇒ 参考文献)。現在のアイルランド西海岸ケリー州に拠点を置いていたアルトリー一族は5,6 世紀のオガム石にも見られる古い氏族名で、名前の由来は諸説あるが、古アイルランドゲール語で「荒々しい土地」からとも。「ムウの地」は現在のアイルランド南西部マンスター地方 (古アイルランドゲール語ではMumu[Mumha]、マンスターMunsterの呼び名が定着したのはヴァイキング入植後からで、Mumha + s + アイルランドゲール語の「土地」'tir') から。 (2). 「奇蹟の野 saltus virtutis」はアイルランドゲール語のCluain Fertaのラテン語訳で、現在のゴールウェイ州クロンファートClonfert。修道士の数三千人は、当時の記録から見ても妥当な数字。 (3). 聖バーリンドは現在のアイルランド中部オファリー州エグリッシュ郡にある教区ドラムカレンの修道院長とも伝えられる。セルマー校訂版p.101はバーリンドを「オ・ニール(王)領地の修道院長」としているが、Neil(Niall)は「9人の人質」のほうのニール(ニアル)。カーニーによれば、バーリンドはニアルの4代目の子孫で、ドラムカレンのほかにドニゴール地方にも彼の名を冠した地名(Kilbarron='Church of Barrind')が残っていることから、ドニゴールとの関係も示唆している。 (4). 聖マーノックは聖エルナンのことで、バーリンドとは近縁にあたる。なおマーノックとは古アイルランドゲール語による愛称表現。Mernoc (Mo-Wrn-oc)=my little Ernan. 聖マーノックはドニゴールの人で、この点においてもラテン語版『航海』の記述は事実と一致する。 (5). 「石の山」mons lapidis はアイルランドゲール語Sliab Liagのラテン語訳で、現在のドニゴール州スリーヴ・リーグSlieve leagueにあたる。カーニーは「歓喜の島」をカイン島Inis Cain Dega、現在のキーン島 Inishkeenと推定するが、この説はあまり支持されていない。 (6). 詩編145:17。 (7). 「ヨハネによる福音書」13:34。 *ラテン語版『航海』第一章邦訳は管理人によるオメイラ教授その他英訳からの重訳がベースですが、英訳で現代アイルランドの地名に置き換えられている箇所 (「奇蹟の野」、「石の山」) などは、太古隆治先生の邦訳からいくつか訳語を拝借した点をまずお断りしておきます。なおこの点について、訳者太古先生より使用許諾を得ています。⇒ 著作権について ブノワ編 アデライザ王妃殿下、
この神の聖者はアイルランドの王家に生まれた。(2) 王族の一員ゆえ、気高き理想に身を捧げた。かの聖典の一節もよく心得ていた。「現し世の喜びから逃れた者は、天の神とともに、これ以上求められないほどの喜びを得る」 おおいなる賢者にしてあやまたない判断を下し、まったき道を歩む修道院長聖ブレンダンは、あるとき、神に一心に祈った。自分と血族の者すべて、生きとし者も死せる者もみな友であるがゆえに、彼らのために。だが心の内ではあるひとつの切なる願いを抱いていた。そこで繰り返し神に祈りはじめた。あの楽園を見せたまえ、我らの始祖アダムを住まわせ、継承権がありながら奪ってしまわれたあの土地を。聖典に書かれてあるごとく、聖ブレンダンもかの地には真の栄光が満ち満ちていると信じてはいたが、それでも本来住まうべき地をこの目で確かめたかった。だがアダムは罪を犯したため、聖ブレンダンもわれわれも追放されている。聖ブレンダンはひたすら神に祈りつづけた。どうかかの地をお示しください、現し身で見たいのです、善人がいかなる場所に憩うのか、そして悪人どもがいかなる場所をあてがわれるのか、彼らが受ける報いも見たいのです。 またこうも願った。尊大さゆえいついかなるときも神とその掟に逆らう不信心者の受ける地獄の苦しみをも見せたまえ、かような者は心に愛がないか、信仰がないのですから。聖ブレンダンは神の支えにより願いが成就するよう祈ると、さっそくバーリンドと名乗る、聖なる神の僕をたずねて告白することにした。この神に忠実な隠者は三百人の修道士とともに森に暮らしている。支えを得たいと願うのなら、わたしがこれから話すことをよく聞くことです。隠者バーリンドは聖ブレンダンに、霊感あふれる挿話とまことふさわしい金言とを織り交ぜて、名づけ子マーノック(4) を訪ねたときに海と陸で目にした光景をことこまかに語り聞かせはじめた。マーノックはもとわしの修道院の兄弟だったがどこか隠遁の地をしきりと求めておりました。そこで代父にして院長だったわたしのすすめに従い、息子は船出しました。その甲斐あって行き着いた先は、神を信じる者しか立ち入ることのできない島でした。かの島は絶海のただなかにあり、風が吹き荒れることもなく、息子は楽園島で咲き乱れる花の芳香を糧として暮らしています。息子のたどり着いた島は楽園島と指呼の間なのです。そこでわが息子は天使の歌に耳を傾けながら、それこそ楽園のごとき暮らしを送っているのです。バーリンドはマーノックを訪問し、いま聖ブレンダンに語り聞かせた光景を目の当たりにした。隠者がかの島で目にしたものを聞くと、聖ブレンダンは隠者の教えをさらに請い、自分もかの地への船旅を急がねばと決意した。 (1). 「俗語にいたしました」の原文は'En letre mis e en romanz'。letreはラテン語で書かれた物語とも解釈可能で、その場合、作者はラテン語と俗語のふたつの版を用意したことが考えられる。 (2). じっさいのブレンダンは王族出身ではない。『聖ブレンダン伝(聖ブレンダンの生涯)』 Vita Sancti Brendaniによればマンスター地方のアルトリー・カイルという豪族出身の父フィンルグと母カラとのあいだに生まれたとされる。 (3). 「マタイによる福音書」6 : 19-20. (4). ラテン語版『航海』ではマーノックはバーリンドの名づけ子ではなく息子となっている。
底本 : MS A, London, British Library, Cotton Vespasian B X (I) 『ブノワ編 アングロ・ノルマン版聖ブレンダンの航海』は現在までに6つの写本が発見され、うちふたつは断片に過ぎない。底本としたのは大英図書館所蔵の写本で、14世紀前半ごろの作と伝えられる。I. ショート、B. メリリーズ校訂版など、たいていの版はこの大英図書館所蔵写本を底本としている。原典の書かれた時期は12世紀前半と考えられてはいるが、このロンドン写本Aは原典にまでさかのぼると推定できうるほど語法・単語などを忠実に保持していることから、もっとも信頼すべき写本とみなされている。 成立年代 : この韻文作品の成立については、やはり冒頭の献辞に登場する王妃の名から推測するほかないが、現存する完全な4つの写本のうち一編はヘンリー一世の最初の妃マティルダになっており、いずれが正確なのかについては決め手がない。アデライザはマティルダの死後、ヘンリー王の二番目の妃となった。前妻マティルダはスコットランド王家出身で、カンタベリー大司教ランフランク、その後継者でこの作品の作者ではないかとも推測されるアンセルムとも交流があった。そのためこの作品は一度マティルダに献呈され、さらにアデライザ妃に献呈しなおされた可能性もある。作品の献呈時期についてはマティルダに献呈されたとすれば1101-1106年ごろ、アデライザに献呈されたとすれば1121年ごろと思われる。 中期オランダ語版『航海』冒頭部 (De reis van Sint Brandaan, L.1-136) むかしむかし、神のさまざまなしるしを見たひとりのアイルランド人の物語をここに語らせてください。いまから語る物語を読者の皆さんが信じるのならば、まごうかたなき神の奇蹟とはなにかを知ることでしょう。異邦人バラムの牝驢馬の前に炎の剣を差し出して立ちはだかり、驢馬の口を開かせた聖霊よ、どうかわたしの道しるべとなりたまえ。(1) 驢馬の口を開かれ、ことばを話させたように、どうかいま、わが口もとを開きたまえ。
これなる男はまぎれもなく聖人であった。名はブレンダンと申す。ブレンダンはアイルランドで三千人余の修道院の頭として、心から神に仕えていた。さてこのブレンダン修道院長があるとき古文書をひもといていると、その中に神が創造された被造物にはさまざまなしるしが現れていると書かれた箇所を見つけた。それによれば地上には多くの驚異が満ち溢れ、その上にはふたつの楽園があり、海には巨大な島が存在するという。またこの地上の下にはもうひとつの世界があり、こちらが昼のときはかの地は夜だという。また三つの天国があり、森を生やした魚もいるという。こんなものとても信じられない。さらに読むと毎週末、神はユダに哀れみをしめされ、休息を与えるとも書かれていた。もうたくさんだ、わたしはこの眼で確かめたものしか信じないのだ。ブレンダン院長はこの書物の作者を呪うと、怒ってこの書を火に投げ入れた。(2) おかげでブレンダン院長はえらい代償を払わされることになる。院長が火のかたわらに立ち、書物がめらめらと燃えるさまを見ていると、そこへ神の御使いがひとり現れ、院長にこう呼ばわったのだ。 神のお告げにたいそう心乱された聖なるブレンダン院長は、なにが起ころうともどうかわが魂を守りたまえと聖母マリアの名において主キリストに祈った。祈りを捧げると、院長はまっすぐ海岸へ赴き、頑丈で立派な船を造らせた。帆柱は松の木から仕立てられ、帆も丹念に布から切り取られ、縫い合わされた。船体も鋲でがっちりと接合され、まるでノアが迫り来る洪水を恐れて建造した箱船を思わせた。碇も鉄製で、入り用のときには確実に船を海底に引っかかってくれるだろう。ブレンダン修道院長は八十人が九年もつだけの食糧を船に積み込ませ、また小さな船上礼拝堂に鐘、聖遺物も持ちこませた。また故国からは粉挽きとこね桶、さらには鍛冶道具まで用意させた。これで船出の支度は万端整った。ブレンダン修道院長はこれからの航海からぶじ帰還するが、同行させたふたりの礼拝堂用度係のうちことりはたいへんな災難に遭遇する。あろうことかこの御仁、いとも高価な馬勒をくすねてしまったのだ。悪魔にこの盗みを見られるや、地獄へと引きずりこまれ、ブレンダン院長の必死の祈りで解放されるまで、したたか大目玉を喰らうこととあいなる。 (1). 民数記 22 : 21-35。 (2). 詩編 51 : 55。 底本 : C. Stuttgart, Württembergische Landesbibliotek, cod. poet. et phil. 2°22(Comburg ms.), ff.179-92v. c. 1380-1425. オランダ語韻文版『航海』について、ユトレヒト大学のクララ・ストライボシュ女史は、1150年頃にライン地方で書かれたあと散逸した原詩(O)から派生したとし、ふたつの写本が現存している。底本はそのうちのひとつ、コンブルク写本と呼ばれるもの。 内容と構造 : ふたつの写本は詩行が段落に分けられたり章立てされずに書かれている。以下はオランダ語版のおおまかな全体構造。オランダ語版には欠落してドイツ語散文版に登場する挿話については、挿話を示す数字のあとに*で示している。[ ]で囲まれた行数は原作と異なる位置に移動させられた挿話を示す。
1 序章(1-20)
むかしむかし、聖ブレンダンというたいへん清い修道院長がおりました。(1) アイルランドに生まれ、当地の有名な修道院の長をつとめておりました。さてあるとき、ブレンダン院長がとある書物を見つけてこれを読みますと、こんなことが書いてありました。神は天と地と海に大いなる驚異を創造された。この世には天が三つ、地上には楽園がふたつと煉獄が九つあり、人跡未踏の荒野が数多く存在する。またこの地上世界の下には地下世界が存在し、地上世界が夜のとき地下世界では昼である。また海にも神の大いなる秘蹟が存在する。太古の昔より生きながらえた巨大魚が何匹か生息していること、その背には小高い木々がうっそうと茂り深い森にまで成長していること。また毎週土曜日(2)になると、神の慈悲により、ユダが地獄の苦しみから逃れてひとときの休息を得ていること、などなど。 こんなこととても信じられない、と聖ブレンダンはくだんの書物を火にくべて燃やしてしまいました。めらめらと火が書物を焼き尽くすかたわらに立っておりますと、天からひとりの天使が舞い降りてこう呼ばわりました。 院長は皆にノアの箱舟にならった大船を建造させ、船体には鉄の厚板を張って補強しました。船が完成すると、ブレンダン院長は、十二人の弟子とご自身が必要な糧食と衣服、その他生活に必要な品々を九年分、船に積みこむよう命じました。また船にはちいさな礼拝堂も造らせ、聖別したのち多くの聖遺物を持ちこみました。そしてアイルランドでもっとも清い修道士を十二人選びました。お供に選ばれた修道士はみな、喜んでご命令に従いお供したしますと院長に誓いました。長い航海ののち、お供の弟子は、地上楽園から姿を消した一名をのぞいて、ブレンダン院長とともにぶじアイルランドに帰りつきましたが、あやうく悪魔に連れて行かれそうになった修道士がひとりおりました。こちらは皆の熱心な祈りのおかげで悪魔から解放されたのですが、その顛末はのちほどお話しすることといたします。 (1). ゴータ写本GではBrandonと綴られ、ハイデルベルク写本HではBrandeと綴られている。 (2). Hでは「毎週土曜に」alle samstage zu nacht となっている。 (3). ほかの写本では「九年」とあり、H写本の後半でもそう書かれている。 底本 : G. Gotha, Forschungs- und Landesbibliotek, Chart.A13. ff. 54r-63r. 中期オランダ語韻文版と同様、この中世高地ドイツ語散文版『航海』も源流は散逸したおなじオランダ語原詩にある。この逸名作者の手になるドイツ語散文版(P)の成立年代は14世紀後半か15世紀前半と思われ、高地ドイツ語(シュヴァーベン方言)による4つの写本と、1476年ごろアウグスブルクのアントン・ゾルクからはじまり1521年におなじアウグスブルクのハンス・フロシャウアーまでつづく一連の「揺籃期(incunabula)」活版印刷本によって今日に伝えられている。4つの写本のうち3つについては古くより知られているが、最後の写本はごく最近の発見である。3つの写本のうち、ゴータ写本(G)と呼ばれる写本に収められた聖ブレンダンの航海物語は15世紀前半の作とされ、底本となった散文版にもっとも近いと推定される。ミュンヘン、ハイデルベルク写本(M, H)と呼ばれるものは前者が15世紀後半、後者が1460年ごろに書かれたとされ、この写本群ではやや後期の作に属する。両写本には線画も添えられている。ごく近年になって発見されたベルリン写本(B)はカスペール・レンボルトなる写字生の署名入りで、15世紀後半~16世紀前半にかけて書き写されたものと考えられ、ハイデルベルク写本hに収められた版ときわめて近い関係にある。 内容と構造 : 写本Gでは各挿話は章立てあるいは段落に分割されずに書かれている。読みやすさを考え、各挿話を以下のとおりまとめておく。オランダ語、各国語版と比較しやすくするため、各挿話の章立てはストライボシュ女史が2000年に発表した、オランダ語原典Oの順番にもとづく。数字のあとの*はドイツ語散文原本Pであるゴータ写本Gでは欠落し、中期オランダ語韻文版写本C/Hには存在する挿話を示す。
1. *** オック語版『航海』 Occitan version 聖者ブレンダンはいとも高貴な名門の生まれで、偉大な禁欲の人、輝ける高徳の人であった。伝えられるところでは、聖ブレンダンは数多くの修道士と修道院共同体を治める父であった。院長の望みは大洋の果てを捜し求め、探検することだった。 聖ブレンダンは全共同体から十四人の弟子を選び、一同を礼拝堂に集めてこう切り出した。 (1). 原文はAhenda。原典のラテン語簡略版ではEnda。 底本 : Paris, Bibliotheqèue Nationale de France, fr. 9759, fr.210-13r. オック語版で現存するのはパリ国立図書館に収められている写本のみで、15世紀の作と考えられている。オック語の方言であるオート・ラングドック語で書かれた聖人伝とともに散文で書かれている。写本はニ段に組まれ、ひとつの段につき33本の薄い罫線が引かれている。 成立年代と原典 : 逸名作者によるオック語版成立年代を特定する手がかりは、「1211年6月12日」という写本に記された日付のみである。 カタルーニャ語版『航海』Catalan Version 修道院長聖ブレンダンはいとも高貴な名門に生まれた。気高く、偉大な禁欲の人で、五百人の修道士の長であった。この聖ブレンダンは、大洋を取り巻く広大な土地を探索したいと願っていた。ブレンダン院長はお供として十四人の弟子を選び、尋ねた。 底本と成立年代 : V. Vic/Vich, Biblioteca Episcopal, 174, ff.512v-522r. カタルーニャ語散文による写本は2点現存し、ともに15世紀前半と推定されている。ふたつの写本は物語の長短によって区別され、物語の長いほうは前出のオック語版と構造が似通っている。上記訳は短いほうのヴァージョン。写本の頭文字は青文字・赤文字と交互に彩色され、各章冒頭の文字には凝ったフィニアル装飾を施されたものもある。作者不詳。 内容と構造 : オック語版と同様、聖ブレンダンその人について書き出したあと、おおまかにつぎのような内容で構成される。 (1). 冒頭部~弟子を集める 各挿話間でラテン語版『航海』中の挿話が混交している部分も見受けられ、筆写されてゆくうちに混乱が生じた可能性がある。また17人の弟子が18人になったり、数の数え間違いも見られる。この「短い」ほうの写本でもっともユニークなのは、聖ブレンダン一行が帰路、大きく迂回して紅海から「ペルシャの皇帝」に謁見、航海中体験した出来事を記録した書物を献呈したのち、皇帝ともどもエルサレム詣でをしてから故国へ帰還するという終結部をもっていること。これは当時の「十字軍もの」叙事物語が影響していると考えられる。また最後の挿話に出てくる牛を見張るふたりの男については、クレチアン・ド・トロワの『イヴァンまたは獅子を連れた騎士』に登場する「真っ黒の、醜い牛飼いの大男」も連想させる。 『南イングランド方言版聖人伝』所収の最古の英語版『航海』 聖者ブレンダンはアイルランドに生まれ、編者の理解するところでは、断食と修行に明け暮れた厳格な生活を送った人だった。聖ブレンダンは故国で三千人の従順なる修道士を抱える共同体の長であった。 ある日、我らが主の御心のままに、バリントと名乗る修道院長がたまさかブレンダン院長を訪ねた。ややあって聖ブレンダンが、院長さまがよその土地のそこここでで見聞したことを話して聞かせてくださいと頼むと、この高貴なるお方は何度も溜息をつき、途方に暮れてさめざめと涙を流すと、気を失ってその場に倒れこんでしまった。聖ブレンダンがこの聖者を抱き起こし、接吻をして名前を呼ぶと、聖者は意識を取りもどした。 「大洋」はもっとも広大な海、全世界を取り巻き、海という海はみなこの大洋とつながっている。(1)それゆえ、この老聖者バリント院長は心からのかたじけなさから大いに涙を流しつつ、大洋で体験したことを話しはじめた。 そのことを伝え聞いたわたしはすぐに舟を出し、マーノックのいる島へと向かいました。我らが愛する主は名づけ子にわたしが島へ向かってくることを夢で知らせたので、わがマーノックはわたしを出迎えるべく舟を出し、三日ののちにわたしと出会いました。わたしどもは一艘の舟に便乗すると、そのまま大洋の海流に乗ってまっすぐ東へ進みました。大いに難儀しましたが、はるか東の地までやってくると、かの地はとても暗く、厚い雲にすっぽりと覆われてしまいました。さらに東へ舟を進ませると、我らが愛する主はついにわたしどもに島を示され、わたしどもはその島へと舟を入れました。島は太陽のごとく明るく輝いていました。なんとも喜ばしいことに、島中、至るところに樹々や植物がうっそうと生い茂り、宝石がまばゆい光をあまねく放っていたのです。どの植物にも花が咲き、どの樹にもたわわに果実がなっていました。かの地が天国でもないかぎり、これ以上の至福はありえません。わたしどもはすこぶる満たされて、長いこと島を彷徨いましたが、島ではほんの一瞬にしか感じませんでした。島には境界線はありませんでしたが、やがて東から西へとまっすぐに流れている、一筋の澄み切った河に出ました。わたしどもは川のほとりで立ち止まり、周囲を見回しました。 (1). Occean(Occian)は、この編纂者もしくは底本にした写本作者が、内海である「地中海」とは異なる円盤上の地表を取り巻いて流れる「大いなる海」という古代ギリシャの世界観からラテン語版『航海』のoceanoを解釈した語と思われる。 (2). 大半の各国語版と同様に、英語版も聖マーノックをバーリントの「息子」ではなくて「名づけ子」としている。 (3). ラテン語版『航海』の「スリーブリオグ(石の山)の沖に浮かぶ、『歓喜の島』なる地」'insulam iuxta montem lapidis, nomine deliciosam' という箇所を固有名詞ではなくて一島の描写として記述している。 底本と成立年代 : Oxford, Bodleian Library, Laud.misc. 108, ff.104r-110r. 1300年ごろ 『南イングランド方言版聖人伝』(South English Legendary, SEL)はほぼ同時期に大陸で成立したヤコブス・デ・ヴォラギネ編纂の『黄金伝説 Legenda aurea』を下敷きとしてブリテン諸島など古英語圏に人気のある聖人を独自に取り入れたりして成立したもので、各聖人の祝日を教会の重要祝日とともに教会暦の順に記述した教会暦と聖人伝を合体させたような作品。聖ブレンダンについての言及があるのは上記に訳出した最古の写本をふくむ18の写本群。最古の写本にはのちの時代の写本に収録されている聖人についての言及が欠けていたり、配置の混乱があったりすることから本来はべつべつに存在していた写本を一冊に合本した可能性もふくめて発展途上の姿であるとする見方が一般的。これとはべつに、大陸版『黄金伝説』を下敷きにした英語版のGolden Legendがあり、こちらはウェストミンスターの活版印刷家ウィリアム・カクストンが1484年に印刷本として出版した。カクストンはこの印刷版『黄金伝説』に聖ブレンダンの項目を「聖ブランドン伝 The lyfe of Saynt Brandon」として収録している。 内容と構造 : 18の写本間で些細な異同があるものの、約730行からなる物語はおおよそつぎのような構造になっている。 1). 聖ブレンダン、聖バリントから「聖人たちの約束の島」の話を聞く(1-80) 2). 14名の弟子とともに船出、途中でさまざまな島に立ち寄る(81-342) 3). キリスト教会暦の主要祝日をおなじ島に立ち寄って祝う。獰猛な獣との遭遇、地獄の島通過(343-513) 4). ユダと隠者パウロとの遭遇(514-663) 5). おなじ島々で重要祝祭を祝ったのち、「聖人たちの約束の島」到着。アイルランド帰還と聖ブレンダンの死。(663-733) |
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