「調査航海‘ブレンダン’」(2011年5月2日 記)

by  ブレンダン・オ・キーヴァン
Breandán Ó Cíobháin

以下、[ ]は訳注。

 今回の調査研究航海は、全長 45フィートの帆船 アル・シャクラーン Ar Seachrán 号のスキッパー、パディ・バリー氏および考古学研究者の筆者が企画した。目的は、6世紀このかた、北大西洋を霊的に支配してきたのはアイルランド人修道士たちだった、という事実を詳らかにすること。乗船するのは船乗り、詩人、音楽家に ── そして聖人と罪人も含まれる! 様々な観点から調査する各専門家も随時、クルーとして参加する。各寄港地では、いろいろな方々および団体各位から援助の申し出を受けており、ここに謹んで謝意を表したい。出航日は「聖ブレンダンの祝日」当日、2011年 5月 16日、出航地はスケリグ・ヴィヒール / スケリグ・マイケル島である。そこからアイルランド西海岸沿いに北進し、スコットランドのオークニー諸島、シェトランド諸島、デンマーク領フェロー諸島を経由してアイスランドへ向かい、アウター・ヘブリディーズ諸島を経てアイルランドへと戻る。古アイルランドゲール語の Iomramh という語は航海[ 漕ぎ回る ]を意味し、世俗的・宗教的文献双方で使用された言い回しだ。

 中世アイルランド人航海者で、もっとも有名なのが、聖ブレーナン/ブレンダン( AD 486−578 ? )である。彼の名声を決定的にしたのが、『聖ブレンダンの航海[ラテン語]]』と『聖ブレンダン伝[ラテン語と古アイルランドゲール語の両写本がある]』であり、ともに紀元 800年ごろに成立したとされる。このような理由から、本調査航海も、この聖人の名前を冠することにした。しかしながら、「大洋に砂漠を求め」ることを主題とした彼らの航海は、これらテキストが成立するはるか以前に確立した「史的事実」である。このことは、7世紀にかけてアイオナ修道院長アドムナーンの著作とされる『聖コルンバ伝(c. 690−700)』を見れば一目瞭然だ。『聖コルンバ伝』はもっとも信頼の置ける最初期の史料であり、その最古の写本はドルベーネ(AD713没)によって書かれたとされ、現在この写本はドイツ南部コンスタンツ湖に浮かぶライヒェナウ島の修道院に保管されている。

 アドムナーンの『聖コルンバ伝』には、「大洋の砂漠を求め」て、6世紀後半に行われた航海についての言及がある。Baethán が行った航海(彼はその後故国に帰還した)、そしてコルマック・ウア・リソーンが行った航海だ。コルマックはそのような航海を三度行い、最終的には同様にアイルランドに帰還している。コルマック二度目の航海の折、コルンバ(コルム・キレ Colum Cille, 597年没)はピクト人の上王ブルードの面前で、弟子がぶじ航海を乗りきれるようオークニー王の加護を求めている。そしてブレンダンもまたアイオナ島方面に渡航していたのは明らかで、『コルンバ伝』には、ブレンダンとコルマックは聖クヴォール、聖ケニアクとともにヒンバ島(同定されてはいないが、アイオナ島にほど近い島であることは間違いない)にコルンバを訪問したと書かれている。『ブレンダン伝』には、ブレンダンが南ウェールズの修道士ギルダスを訪ね、その後ブリタニア(ブルターニュと解されることもある)のアイリーチ島に渡った。かの地にとどまるつもりだったが、ヘス(タイリー島か?)にある ブレダハ Bledach/ブレドゥア Bledua という地に修道院を設立したのち、結局アイルランドに帰還した、と記されている。

 ブレンダンの出身氏族アルトリー・カイルは現在のケリー州トラリー地域にいた氏族のひとつ。だが、ブレンダンが創設した主要修道院共同体クロンファート(クローン・フェルタ)はゴールウェイ州南東に位置し、また彼が設立した小規模共同体はコナハト地方北東部に散在している。航海物語の主題と関連して彼の名が高められたのは、7世紀後半のクロンファート大修道院長クミーン・ファダの影響と、その結果、紀元 800年以前にキアリー氏族によって守護聖人として奉られたこととなにかしら関連があるのかもしれない。当時のキアリー氏族はディングル半島を拠点として、トラリーのアルトリー氏族を配下に入れ、マンスター地方の覇者オーガナハト・ロッカ・レイン王族と対抗する勢力の長たる地位を確立していた。しかしながらアードファート(アルド・フェルタ)はそのディングル半島にありながら、創設者としてブレンダンの名前が年代記に登場するのは 11世紀になってからで、司教座が設置されたのは 12世紀だった。

 『聖ブレンダンの航海』において、出航地がドニゴール州南西岸スリーヴ・リーグからクレア州北西岸、そしてブランドン山麓近くへと奇妙な遷移を見せているのも、このキアリー氏族の守護聖人としてのブレンダンの名声がしだいに高まったことの反映なのかもしれない。最初の出航地と関連付けられるのはバーリンド(バリン)で、彼がブレンダンに弟子マーノックの「聖人たちの約束の地」訪問を語る。二番目の出航地と関連付けられるのはマンスターの守護聖人聖エルベであり、彼もまた「約束の地」にとどまったことがあり、そしてブレンダンは、彼の共同体の住む島を航海途上で発見する。

 アイルランド人修道士がブリテン諸島北方沖に浮かぶ島々に存在していた事実は、コルマックのオークニー諸島訪問の後、カロリング朝フランク王国宮廷に仕えていたアイルランド人地理学者ディクイルが 825年ごろに著した『地球の計測 De Mensura Orbis Terrae 』に出てくる。それによると、かつてアイルランド人隠修士が百年間、それらの島々に住んでいたが、彼らはヴァイキング侵入を前にして島々を捨て、そこには多くの羊と海鳥だけが残されたという。この記述はフェロー諸島を指すと思われる(Forøyar は文字どおり「羊の島」の意)。ディクイルは、これら北の洋上に浮かぶ島のいくつかにみずから渡った経験があるとし、また同郷の聖職者たちから聞いた話も書いている。それによればアイルランド人聖職者の一団が 795年ごろ、2月から7月までをテューレ(アイスランド)で過ごしており、夏至のとき、かの地ではまる一日、太陽は水平線すれすれにしか沈まずふたたび昇り、島の北の海は凍りついていたという。

 そのようなアイルランド人修道士たちは、12世紀およびそれ以降のヴァイキング入植者の記録では「パパル[ キリスト教聖職者の意 ]」と呼ばれ、マン島からアイスランドへと至るまで、さまざまな形で彼らの名前を地名にとどめている。これらは現在進行中の「パパル調査プロジェクト」の参加学者によって数種の報告として文書化され、また Web上でも公開されている[→ Papar Project]。今回の調査航海では、これら「パパル〜」という地名を冠する場所もいくつか訪問する。また、とりわけフェロー諸島とアイスランドについても同様に、これまでの調査・発掘の結果、アイルランド人修道士がかつて存在したことを示す場所を訪ねる予定である。

 また、図像および建築技法、古文書などの観点からアイルランド初期キリスト教会と関連があると考えられる遺構、たとえばコルンバのアイオナ島、ドナンのエッグ島(617年ごろ、ドナンおよび 150人の修道士がここで海賊に殺害された)、マイル・ルーヴァ設立の共同体(AD 673)跡のあるスコットランド本土アップルクロスなども訪問する予定。このうち、とくに興味深いのは、ファース・オヴ・ローン南端付近に位置する小島アイリーチ・アン・ニーヴ( Eileach an Naoimh[「聖人たちの島」の意]、ラテン語版『ブレンダン伝』の「アイリーチ」)で、島にはブレンダンに由来するとおぼしき地名がふたつ残されている ── ドゥーン・ブレーナンとクィル・ブレーナンである。ハイランド地方にはブレンダンに奉献された教会がいくつか残っており、それらはたいてい、「キル・ブレーナン」のように表記されている。そして、アイスランドからの帰路における重要な調査地点としては、セントキルダ島(ヒヨールシュ)にあるブレンダン関連遺構が挙げられ、また、ラス岬北西 50マイル※沖に浮かぶ北ローナ島にある創設者不詳の宗教遺構を調査することもふさわしいかと思われる。

 このように、アイルランド人聖職者は霊的覇権者としての地歩を築いたが、これは本国ではほぼ完全にと言ってよいほど顧みられることのない事実である。彼らが後世に残したメッセージも、物質的な富とその満足にのみ目を奪われた現代においては、失われてしまった。また、同時期のアイルランド人による政治的覇権 ── 彼らはローマ帝国支配下のブリタニアに侵入し、西海岸沿岸一帯に植民地を築いた ── も、やはり知られていない。アイルランド人の「ディアスポラ」としておおいに喧伝されたのは19世紀、飢えた貧民層が「棺桶船」に乗って故国を脱出しようと狂奔した、「ジャガイモ飢饉」くらいのものである。それ以前の「アイルランド人のディアスポラ」の足跡は、北大西洋に面する国と地方の海岸一帯に残されている。アイスランドの初期入植者のうち3分の1は、アイルランド人となんらかのつながりがあり、アイスランド文学もまた彼らから多大な影響を受けている。南ウェールズにおいて最後のアイルランド人王朝が滅びたのは8世紀だが、ゲール語圏スコットランドとアイルランドはその後も似通った文化を保ち、それは 17世紀までつづいた。ローマ帝国崩壊後、徐々に立ち上がってきた新生ヨーロッパにおいて、アイルランド人聖職者と学者の果たした貢献はまこと目覚ましいものがあり、彼らの残した業績に対する調査研究も近年たいへん多く行われてきた。とはいえ、その研究成果の大半が、狭いアカデミックな世界に閉じこめられてしまっている。

 今回の調査航海は、このような比類なきアイルランド人聖職者たちの世界観を包括的に理解し、彼らの霊的価値を正当に評価せんとする試みである。これは個人グループによる航海であり、いかなる方面からも資金援助は受けていない。キリスト教徒として、はるか「大洋の砂漠」を求めた彼らの足跡がもっとも端的に現れている場所は、ケリー州南西沖に浮かぶ孤島スケリグ・ヴィヒールの6世紀創設の修道院跡をおいて他にない。今回のような、たんに大海原を移動するだけにとどまらない野心的調査航海の出航地としてスケリグ・ヴィヒールはまことにふさわしいし、同時に、ブレンダンに捧げられた地名のアイルランド南限の地もすぐ近くに存在する ── ヴァレンシア(ダルリイ)島の海岸付近に残る「トバル・ウラ・ブレーナン」、「ブレンダンの祠の泉」である。

 願わくば、われわれにも彼らの霊的感覚とかたじけなさをもって、叶うならば「約束の地 Tír Tairngire 」を見出さんことを ── そして、名にし負う「かぐわしき枝[『ブランの航海』]」をもたらしたまえ。

※…マイル=海里[1海里=1,852m]

 なお航海日程についても後日、訳出したいと考えています。

原文ページ

© Dr Breandán Ó Cíobháin ; all rights reserved.

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