聖人と学僧の島

「はじめふたり、三人と集ったささやかな庵
いまや何百何千と群がるローマとなりき」
――『ケーリ・デ、オエングスの聖人暦』

4世紀から5世紀にかけて、ヨーロッパ大陸は動乱のさなかにありました。北方からゲルマン民族をはじめとする異民族がつぎつぎと押し寄せ、476年、ついに西ローマ帝国が滅亡します。この動乱の時代、ギリシャ・ラテンの知識人らは古典をたずさえ、いまだ異民族に蹂躙されていない、西の果ての海に浮かぶ島へと避難しました。
 その島こそアイルランドで、ちょうど聖パトリックをはじめとする初期ケルト聖人たちが各地に修道院を創設していった時代でした。アイルランド人修道士はガリアの修道院などで学問を積んだ者も多くいたので、ローマ世界の知識層はこうしたケルト修道士を頼ってアイルランドへと貴重な過去の遺産を伝えていったのです。のちに大陸の動乱が収まると、こんどはアイルランドから修道士が大挙してヨーロッパ本土へと上陸し、キリスト教布教のかたわら、自分たちが保管してきたギリシャ・ローマの知識や文化を還流させていきました。
 もしこのときアイルランドという避難地がなかったのなら、そして彼らアイルランド人修道士による「文化遺産」の還流努力がなかったら、その後のヨーロッパ大陸の歴史は大きく変わってしまったはずです。

修道院制度の伝播

修道院制度の伝播

実線 : 東方(パラディウス、エバグリウス、バジリウス)や西方(ヒエロニムスとカッシアヌス)のキリスト教徒の経路。
破線 : エジプト発祥の修道院の発展経路。[出典 : D. ノウルズ著、朝倉文市訳『修道院』(平凡社刊、1972)]

キリスト教の伝播

北方ヨーロッパにおけるキリスト教の伝播( AD.563−740 )

ケルト修道院文化の誕生

 5世紀、かつて奴隷として過ごした地アイルランドにひとりの宣教師が帰ってきます。名はパトリック(AD372?-492?)。当時のアイルランドは部族王が群雄割拠する統一国家のない状態で、『聖パトリック伝』その他の伝記著作によれば、パトリックは現在のアーマーを振り出しにしてレンスター王国、南部マンスター王国、ウォーターフォードへとキリストの福音を宣べ伝えたといわれています。* また同時期、スコットランド南西部ギャロウェイにあった聖ニニアンの「カンディダ・カーサ(白い家)」修道院やウェールズの聖ダヴィッドの修道院で学んだ修道士らが故国アイルランドに庵を編み、ここからさらに多くの聖人を輩出していきます。聖ダヴィッドの修道院から帰国した聖フィニアンはクロナードに修道院を創設、またカンディダ・カーサからもどった聖エンダはアラン諸島イニッシュモアに庵を編み、修道士を養成しました。聖エンダのもとで研鑽を積んだひとりにブレンダンもいました。
 当時のアイルランドは各氏族(クラン)に分かれて群雄割拠していた状態でした。当時のアイルランド島は5つの地域に分かれていましたが、主要氏族としてはアルスター、コナハト(コノート)など島北半分を支配する北イ・ニール王族系(聖コルンバはこの氏族の出身)、レンスターなど島南東部を支配下に置く南イ・ニール王族系とに分かれ、コナハト系氏族から派生したと思われるオーガナハト王族は南部マンスター(古アイルランド語ではMumha, 「ムウの土地」)を支配地域とし、これら王族の下に150以上のクランがそれぞれに封土をもつという社会でした。いちおう「全アイルランド王(上王、ハイ・キング)」と称する者もいることにはいましたが、アングロ・ノルマン軍が侵入するまで、アイルランドのケルト氏族間にはけっきょく統一国家というものは存在しませんでした。放牧中心で遊動民的な村落しかないアイルランドにはヴァイキング(ノースメン)が侵攻してダブリンなどを築くまで「都市」さえなく、その結果、「司教座をおいて教区を管轄する」ローマ方式は普及せず、かわりに氏族の封土じたいが修道院の所領となる制度が普及してゆきます。この特有な修道院制度は当時のアイルランド社会にうまく溶けこみ、氏族の長(王)が修道院長を世襲してゆくケースも多く見られました。
 各地に創設された修道院ではそれぞれ独自の規則をつくり、修道士はきわめて厳格な修練を積みました。そもそもアイルランドに伝播した修道制度はローマを経由せず、エジプトからガリア・トゥールの司教聖マルティヌス(聖マルタン)の修道院で学んだ者が持ち帰ったとされ、一般的な西欧修道制とはかなり異なる独特の修道院制度が発達しました。これがのちに「キリストに捧げた遍歴」 Peregrinatio pro Christoと呼ばれる驚くべき布教・修道院建設運動を大陸各地で繰り広げたケルト修道士たちとローマカトリック教会との衝突を招く原因ともなります。
 このように当時の修道院は、氏族の集落じたいがそのまま修道院として機能していたと言えるでしょう。一族の長が修道院長となり、成員すべてが修道士として仕えていた場合までありました。ラテン語版『航海』の冒頭、ブレンダンがクロンファートで三千人を擁する大修道院の院長を務めていたと書かれていますが、この数字は歴史的にみても当時のアイルランド修道院村落をほぼ正確に反映しています。
 下の図は当時の修道院の一例です。集落の中心に共同体が祈りを捧げる礼拝堂があり、そのぐるりを取り巻くようにして修道士の蜂の巣型僧坊がありました。初期修道院時代では修道院というより庵と言うべき、ささやかな建物だったことが航空調査から明らかにされています。
 ケルト修道士はみな熟練の船乗りでもあり、「キリストのために」、牛の革を張っただけの小舟で船出しては未知の土地を探し求め、神の福音を伝えようとしました。その過程で訪れた北大西洋上に浮かぶ島々につぎつぎと修道院を設立し、島の住民をキリスト教へ改宗させてゆきます。
 またケルト修道士は自分たちの祖先の残した遺産もないがしろにはせず、むしろ積極的に保存しようとつとめました。ドルイド(druids)またはフィリ(filid, 単数形 fili)と呼ばれる祭司・詩人といった土着の知識階級から聞いたアイルランド神話や口承伝説をはじめラテン語に、のちに書き言葉として確立させたアイルランド・ゲール語で写本につぎつぎと記録したのです(ただし厳密には彼らが北欧やギリシャ・ローマの古典、さらには東方世界の伝承をも渾然一体とさせて新たに語りなおしたもので、そのほとんどは間接的にキリスト教の影響を受けています)。こんにち残されているケルト神話は、修道士たちがいなければ完全に忘れさられていたことでしょう。
 ケルト修道士が書き残した太古アイルランドの思想には、日本の「西国浄土」を思わせる、「常若の国 Thír na nÓg」という伝説が代々語られています。みずからすぐれた船乗りだったケルト修道士らは実地の体験も踏まえ、実際の北大西洋の地理も書き加えて「航海物語」として文字に書き写し、そこから『聖ブレンダンの航海』も成立することになります。

* 聖パトリックについては諸説あり、当時のローマ教皇がブリタニアで復活しつつあった異端ペラギウス派を牽制するために431年、アイルランドに最初に派遣した司教パラディウス(おなじくラテン語名パトリキウスと呼ばれていました)とパトリックを同一人物と解釈する説、7世紀に『聖パトリック伝』を著したムルクー Muirchú mocc Mactheni がふたりの「パトリック」を意図的に「若き」パトリックと書き換えたとする説など、史料が不確かなためにいまだに論争の的になっています。伝統的にアイルランドでは聖パトリック来島は432年としていますが、カーニーはじめ、アイルランドの研究者の多くがじっさいには461年ごろとしています。パラディウスについては記録がほとんどなにも残っておらず、詳細は不明です。たしかに言えるのは、聖パトリックがキリスト教布教のためアイルランドに再来島したとき、すでに「カンディダ・カーサ」などの修道院で学んだ修道士が多数存在し、当時のアイルランドはすでにキリスト教化が進んでいたものと考えられること、パトリックが導入しようとしたローマカトリック式司教制度はアイルランドでは当初根付かなかったこと、7世紀、王権を急速に拡張していた北イ・ニール王朝が、自領アーマーの教会を聖パトリックが創始したアイルランド初の教会として優位性を主張、のちに全土の修道院共同体をその配下に収めたことです。聖パトリック伝承の背景には当時の政治状況が密接にかかわっていたと言えます。

アイルランド初期修道院

[出典 : トマス・ケイヒル著、森夏樹訳『聖者と学僧の島』(青土社刊、1997)]

聖ブレンダンについて

Saint Brendan(アイルランドゲール語ではフィンルグの息子ブレンダン Brénaind/Brénainn meic Fhinnlogha, ラテン語ではBrendanus/Brandanus, AD486-575, またはAD484-577). 祝日5月16日。

 歴史上の人物としての聖ブレンダンについてはいまだに多くの謎に包まれていますが、航海譚主人公のモデルとなったアイルランド人修道院長はたしかに実在しました。ただしブレンダンという名の修道院長はふたりおり、航海譚主人公となったほうは「クロンファートの聖ブレンダン」と呼ばれる人物であり、同時代人でやや年長のブレンダンは「バーの聖ブレンダン」と呼ばれ、区別されています。後者はクロナード修道院でクロンファートのブレンダンとともに学び、バーBirr(泉の意)に修道院を創設した人で、アイルランド教会が聖コルンバ追放を決定したとき、コルンバからどこへ向かうべきか、相談に乗った人物です。
 クロンファートの聖ブレンダンのほうは、5世紀後半にアイルランド南西部の海岸の町トラリー近郊の湖沼地帯に生まれたと伝えられています。父親の名はフィンルグ(Finlug<ラテン>, Fynlogus, Findluagh, Findlogh<ゲール>)で、当時のディングル半島一帯の有力豪族だったキアリー・ルアフラ Ciarraige Luachra(ケリー Kerryという現在の地方名の語源)から派生したアルトリー・カイル Alltraige Caille出身の裕福な自由民でした。母親の名は『聖ブレンダン伝』のある写本によればカラ(Cara)もしくはブロンギル(Broinngheal)。この母親から生まれた男の子はアードファート司教聖エルク Ercに洗礼を受け、はじめモビー(Mobhí, Mobí)と名づけられましたが、誕生時に光り輝く霧(Broen Finn)が降りたことからブレーンフィンと呼ばれるようになりました。1歳のときに当時の慣習に従い、リメリックの聖女イタのもとへ養子に出されます。5歳のときにいったん家族のもとにもどりますが、10歳ごろにはふたたび司教エルクに預けられ、そこで読み書き、聖書や詩編を学んだと言われます。
 やがて聖職者となるべく修行に出るため、ブレンダンははじめてひとり旅にでて、遠く北のコナハト地方へと赴き、当時名の知られたイアルライという教師の共同体で本格的にラテン語などを勉強しました。その後司教エルクから司祭の叙階を受け(512年ごろ)、アラン諸島イニッシュモアに庵を編んでいた聖エンダのもとでさらに研鑽を積み、またケリー州の沖に浮かぶ絶海の孤島スケリグ・マイケルの修道院にも一時期滞在していたとも言われています。ほかの「アイルランド12使徒」とともに、クロナード修道院の聖フィニアンのもとで学んでもいます。
 聖ブレンダンはアイルランド西海岸という、当時のヨーロッパ人の知っている世界とまったく未知の世界との境界線で生涯を送った人物ですから、この大海原の向こうにはなにがあるのだろうかという好奇心が人一倍強かったようです。実在のブレンダンは一修道院長として、アイルランドの西海岸沖やブリテン諸島の北の海の島々へ渡航して、精力的に修道院を設立してゆきました。ブレンダンが建てたとされる修道院は、アイルランド西海岸沖の無人島にも多く遺構が残り(コーニー島、イニッシュグローラ島、トーリー島など)、スコットランド本土やオークニー諸島にもブレンダンの名を冠した教会や修道院が多く残っています。また英国ウェールズへも渡り、聖カドク設立のクランカルヴァン(Llancarfan)修道院にとどまり、一時期そこの修道院長も務めたと言われ、かの地で弟子の聖マロを教育し、マロとともにフランス・ブルターニュ半島へ渡ったという伝承も残っています。こちらの伝承はのちに『聖マロ伝』として5つの写本が現存しています。もっとも有名なエピソードは、563年ごろヘブリディーズ諸島アイオナ修道院に聖コルンバを訪問したことです(管理人注 : 聖ブレンダンと聖コルンバの会見場所については、聖コルンバがアイオナ[Iona、スコットランドゲール語ではイー Iとも呼ばれる]へ向かう前に滞在したヒンバ Hinba 島[現在のジュラ島と推定されている]であるという伝承があり、多くの文献ではヒンバ島と書かれています)。554年ごろにはアイルランド中部、シャノン河ほとりのクロンファートに大修道院を創設しています。
 生涯を通じて舟による遍歴をかさねた聖ブレンダンは、いつしか「航海者聖ブレンダン」として知られるようになりました。聖ブレンダンが没したのは575年から577年ですから約90年の天寿を全うしたことになります。亡くなった場所は自身の創設したクロンファートとも、おなじく自身の創設したアンナーダウン女子修道院に妹のブリガを訪問したときとも伝えられ、亡骸はいまもクロンファート修道院墓地の一角に埋葬されているとされています。
 聖ブレンダンの古い綴りブランドンBrandonを冠した地名はいまでもアイルランド西海岸地方、とくにディングル半島に多く残っています。半島でもっとも高い山ブランドン山(953m)、ブランドン岬(ふたつあります。Brandon Head, Brandon Point)、ブランドン湾、そしてブランドン山の北西麓には小川が急流となって大西洋に注ぐ小さな入り江のブランドン入江Brandon Creek(Cuas an Bhodaigh, Feohanagh)があり、ラテン語版『聖ブレンダンの航海』でブレンダンが「聖人たちの約束の地」を求めて旅立った出航の地だと伝えられています。ブランドン山はブレンダン一族にとって神聖な場所であり、『聖ブレンダン伝』によれば、聖ブレンダンがこの山の頂に登り、眼下に広がる北大西洋のかなたにある未知の土地をしめしたまえと神に祈ったとされています。

少年時代のブレンダン

『リズモアの書』から

  ある日、司教エルクは神の御言葉を伝えに出かけた。10歳になったブレナン(訳注 : アイルランドゲール語ではBrénainn) もお供して司教と荷馬車に乗った。司教はひとりブレナンを馬車に残して説教して歩いた。残されたブレナンは詩編を唱えて司教を待っていた。そこへ亜麻色の髪をした、年上のみめよい顔立ちの王女が馬車へ近寄り、光り輝くブレナンの顔に目をとめた。王女は馬車に乗りこんで、ブレナンと遊ぼうとした。

  「城へ帰れ、ここへ遣わせた者を責めよ!」ブレナンはそう言うと、馬の鞭を取り、娘をしたたか打ちすえはじめた。娘はわんわん泣いて、父と母の住む城へ逃げ帰ってしまった。司教は馬車にもどると、あどけない乙女を鞭打ったことをきびしく叱責した。

  「償いをします、どうすればよいか言ってください」

  「この洞穴に朝まで入っておれ。わしが迎えに来るまでずっとひとりでおるのだ、よいか」

  ブレナンは洞穴に入って座り、詩編と神を賛美する聖なる歌を歌いはじめた。司教エルクはブレナンに気づかれないように洞穴のそばでブレナンの歌声に聴き入っていた。少年の歌声は遠く四方へ朗々と響き渡った。コルムキレが詩編や自作の聖歌を歌ったときも、歌声がおなじ距離のかなたまで聞こえたという。

  甘美なるブレナンの声高き歌声、
  フェニト近くの洞穴から四方のかなたへ
  喜びに満ちて響き渡る

  司教は、天使の大群が上へ下へ、天へ地上へと乱舞するさまに目を見張った。この日からブレナンの顔には神々しい輝きが満ちあふれ、その眩しさゆえに少年の顔を見られるのはフィナン・カム以外、だれもいなくなった。フィナンは聖霊の恩寵に満たされていたから、ただひとり少年の顔を見ることが許された。

© from the book of ST BRENDAN OF KERRY, THE NAVIGATOR by Gearóid Ó Donnchadha, Four Courts Press, Dublin, 2005.

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